長崎魂の鐘7

4泊5日に渡る長崎の旅も終わりに近づいていました。

 

 

 

何かが変わったようで、ずっと以前からこのようになることを知っていたような不思議な感じの旅でした。

 

 

 

平和記念公園、原爆資料館、教会、永井隆記念館、佐藤康行講演会・・・・私にとっては人生の全てを網羅しているかのような数日間となりました。

 

 

 

 

そこにまさか、最後にまたしても戦争関連の場所に出向くことになるとは全く予想だにしてませんでした。

 

 

 

特攻巡礼の碑を後に、主人が「無窮堂は時間的にもう見れないと思うけど、せめて、前を見るだけでもいいのでお願いします」

 

 

 

タクシードライバーの方も「ああ、行くだけだったら出来ますけど中には入れませんよ。もう終わってますし」

 

 

 

そんな会話をしながら、無窮堂に到着すると、何やらドライバーの方が軽トラックのおじさんと会話をしはじめたので

「あ、駐車しないように注意されてるのかな?大丈夫?」などと心の声がしました。

 

 

 

 

そしたら、なんと、そこの管理人さんがたまたま自宅で相撲を見たくなって、こんな時間になってから管理棟のカギを閉めに来たのだとか

 

 

 

さらに、サプライズ

 

 

「ああ、開けましょう。中に入っ見ていってください!ご案内しますから」

 

 

え?えーーーーーっ!ありがとうございます、ありがとうございます・・・・

 

 

 

主人と二人、頭をぺこぺこしまくりました!

 

 

 

地元では見学地にすることを嫌う方もいて表示を出せないこと

 

でも、日本遺産に指定されたこと

 

遠方から見学に来られる方が大勢いること

そんなことを聞きながら、無窮堂の中に入りました。

 

 

【無窮堂とは】

日本本土空襲時に軍事施設が真っ先に狙われたのは当然で、この地に隣接する住民たちは何よりも先に 空襲の脅威から身を守らねばならなかった。

しかし、男手は戦場にとられ、鉄製のツルハシやシャベルは強制供出で乏しく、防空壕を掘るのは、女子供の手と 残されたわずかな掘削道具に委ねられた。

無窮洞は、南風崎(はえのさき)を挟んで兵学校分校の東に位置する宮村の国民学校の教師と小学生たちが掘った、生徒600人が避難できる巨大な防空壕である。

 

当時の宮小学校(国民学校)の生徒約500名が避難できたという大型のシェルターで、岩を削って造った教壇やかまどまで設けられている。しかも作業にあたったのは生徒。まだ幼い小学生がツルハシだけで2年の歳月をかけて掘った防空ごうだ。

 

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ツルハシやシャベルはひとり一人の身体に合わせて、一つ作るのに3ヶ月もの時間を要したそうです。

そして、その道具で防空壕を掘り続けること、なんと2年!

 

 

 

 

 

誰一人、泣き言をいう子どもはいなく、とにかく命を守るために働いたことがひしひしと伝わってきました。

 

 

その防空壕の中の凜とした空気と、科学的根拠に沿って彫られ、生活出来る工夫が当時の方々のいのちの捉え方の深さとリンクしているのがよくわかり、本当に感激でした。

 

 

 

 

 

特攻基地があった鹿児島の知覧からも見学に来られる方がいらっしゃるそうです。

そういえば、電車に乗る前の自動販売機に「知覧のお茶」というのを発見・・・・

 

 

いつかは必ず行ってみたい場所でもあります。

 

 

 

さらに、この地に長崎で被爆をした学徒兵たちが運び込まれてきたというも教えていただきました。

 

 

(つづく)

 

 

 

 

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