後遺症と学び

佐藤康行はなぜそこまで

 

戦争のことについて敏感になるのか

 

 

 

真我をやっているから

 

真我は究極の平和

 

 

だから、それと反対のようなことが起きた時に

 

反応するわけ

 

 

 

佐藤康行には、現代の精神病などが

 

 

戦争の後遺症に観える

 

 

 

 

だから自分もこうやって後遺症を

 

味わわせてもらっている

 

 

 

 

もう使命を与えられている

 

 

 

だから、これは学び

 

 

 

倒れて11年後にも後遺症が残っている

 

 

 

 

皆も見えないけど後遺症をもっている

 

 

全部、後遺症

 

 

「佐藤康行との対話」ブログのある日の記事

 

 

わたしは衝撃を受けた

 

 

全部、後遺症・・・・(確かに思い当たる!!)

 

 

 

で、考えてみた

 

 

 

わたしがもっている後遺症はなんだろう、と

 

 

 

その答えは、時間を置かずわかった

 

 

 

宇宙の真理からはずれて生きていることが後遺症

 

 

 

わたしは「心の癖」が後遺症

 

 

 

思い込みが後遺症

 

 

 

男女、夫婦の後遺症

 

 

 

親子の後遺症

 

 

 

お金の後遺症

 

 

 

でも、一番の後遺症は「満たされない後遺症」

 

 

 

いつもいつも不足感を抱いている

 

 

そんな自分をいつも客観的に見つめているもうひとりの自分

 

 

ぐるぐる思考を回していると

 

そこから逃れたくてお酒に走ってしまうことが続いている

 

 

 

 

父も同じ気持ちだったんだろうな、と父に思いが流れる

 

 

 

そして、はっと気づいた!

 

 

 

これが父からの贈り物じゃないのか?

 

 

 

 

そのままにしていたら一番悲しむのは父であり、

 

 

これを変えることが出来たら

 

 

次の世代に別の何かを渡せるのかな、と。

 

(でも正直次の世代のことから執着が取れている感じ

次の世代は自然な流れで良きようになっていくんだろうな、

そんなことを教育セミナー後に感じている。)

 

 

で、それから自分の後遺症を

 

「心の貸借対照表」にして書き出すようになった。

 

 

 

 

スタートは「満たされないと思っているところ」と

 

「(すでに)満たされているところ」

 

 

 

 

 

満たされないと思っているところは、

 

毎日毎日頭から離れない言葉だったり、

 

心のつぶやきだったり

 

不安だったり後悔だったり。

 

 

総括すると「わかってほしい、認めて欲しい、愛してほしい」

 

(書いてしまうといつも見るフレーズで「はい、はい」ってとこだが、

この深い思いは相当なものだ)

 

 

 

 

その中に「女扱いされない」があった。

 

 

教育セミナーの懇親会で佐藤先生がひとこと

 

 

「今回、初めて多澤さんが女に見えた・・・」と

 

 

 

何気なくおっしゃったこの言葉が

 

心に突き刺さった・・・

 

 

正直、ショックだった

 

 

 

(今、こうして書いていてもぐぐっと熱いものがコミアゲル)

 

 

 

褒められているよりも

 

今までそう思われてなかったことへの

 

ショックと不信感が湧いてきた。

 

 

 

 

そう、わたしは、父からこてんぱんに

 

「生」と「性」を否定され続けたことからくる何かがある

 

 

 

 

突き詰めると自分で自分を認めてない

 

 

未だに父から言われた昔のトラウマを後生大事に守っている

 

 

 

だから男になろう、男のようになろうと無意識に気持ちが動く

 

 

笑ってしまうのが「男になろう」としているのに

「男のようだ」と言われるとむかっ腹が立つあたり・・・

 

 

 (結局、女だったってことかのぉと認めた自分がいる)

*しかし、これもおかしな話ではないか

 「女」なのに、女のように見られたいという変なギャグのよう(笑)

 自分の子供を、自分の子供だと思おうとしているに値するギャグ(寒)

 

 

 

 

真我にであってさえ、なお、これは根強く残っている

 

 

 

 

ところが、「満たされているところ」の書き出しの最後に

 

「素晴らしい心と魂と肉体をいただいた」

 

 

この言葉を書いた

 

 

 

 

その瞬間、何かが突き抜けた!

 

 

 

 

 

最近出版された「過去は自由に変えられる」にも

 

肉体の神秘性が書かれていた。

 

 

 

頭ではわかっていて

 

人様にもお伝えすることだった。

 

 

 

 

しかし、自分を信じられない

 

 

 

 

この心と肉体が信じられない

 

 

 

 

なぜここに存在するのか

 

 

 

 

わかってますよ、頭では

 

 

 

そんな言葉がいつも横切る

 

 

 教育セミナーに「わがままスッキリノート」に登場する先生が

参加くださっていた。

 

 

佐藤先生が彼に質問をするシーンがある。

 

もし「薬を飲んで明日死ぬとしても飲むか」

 

愛と恐怖で自分のその後を導こうとされるシーンだ。

 

 

わたしは心の中で「はい、いいです」と即答している自分がいた。

 

それだけ、心の癖は深く太く根を下ろしているんだ。

 

 

モシモ、アシタ、シヌトシテモ

ワタシハ、ヤメレナイ

 

イヤ、シヌタメニノンデイルンダ

 

自分の心の声がしていた。

 

 

 

 

神だの魂だのそっちより(そっちサイド)は良く理解出来る

 

 

 

肉体・・・

 

 

この調和が腑に落ちない

 

 

 

 

いや、「落なかった」

 

 

 

 

でも、ようやくひとつになった感覚

 

 

 

それが腑に落ちたあたりから

 

 

お酒を飲もうとしなくなったことの衝撃・・・・

 

 

 

 

そして、次に出てきた思い

 

 

 

「主人といっしょに居たいから、体を大切にしよう」

 

 

 

「わたしは主人から愛されてもいいんだ」

 

 

 

 

 

 

正直、驚いた!

 

 

 

 

これが、父母、主人の義父、義母からいただいた後遺症だった!

 

 

 

 

 

後遺症って、学びだったんだ!

 

 

 

体は心の結晶体というが

 

本当にそのとおりだ。

 

 

 

お酒をやめ、体を労わるようになったら

 

不思議なことに体が悲鳴をあげはじめた

 

 

 

 

今まで紛らわしていたものが入ってこない中毒症状なのだろう

 

 

 

 

そして、お酒を飲んでいた時間には

 

 

主人と会話をする時間が自然と増えているし

 

 

とにかく眠っていたかった(極端に言えば、死んでいたかった)時間が

 

 

「生きていてもいいんだ」となった。

 

 

 

ここにくるまで50年を費やした。

 

 

 

 

有意義な50年と判断している自分がいる。

 

 

 

男女、夫婦、ここが肝なんだなと

体験させていただいている自分

 

 

 

佐藤先生ありがとうございます!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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