最も、苦手で殺してやりたいほど憎かった姑に土下座の謝罪をし、
それから1年後、自分のいのちを望みもせず、父親らしいことも
何一つしてもらってなかった(と思い込んでいた)父にも
謝罪をさせてもらいました。
そのどちらもが、その日を境に憎むべき相手から
愛すべき人に一気に変わりました。
まるで「闇」が光になった感覚です。
なぜなんだろう
きっと肉体を越えた部分で何かが動いたに違いない・・・
そんなことも思いました。
しかし、本当はもっともっと深いものだったのです。
この二人とも私の魂を成長させるために私の目の前に顕れてくれた
仏の存在そのものでした。
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新約聖書に「右の頬をぶたれたら左の頬を出せ」という内容があります。
人の頬を叩くというのは、その人によほど憎い感情があるということです。
つまり、一回叩いたくらいではその人の気持ちは解消されていません。
そこで、「もっとわだかまりはないですか?どうぞ完全に解消してください」
という意味でさらに相手に殴らせるということを示しているようです。
相手には業があり、自分にも相手の業を引きつける業があるのですが、
相手の業と自分の業を消すためにもう一回殴られるくらいがちょうどいい
ということを伝えていると、私は捉えています。
さらに、殴った相手に対して被害者意識を持ってしまうと、
今度は相手に罪の意識が残る可能性が考えられます。
そのときに、「ありがとうございます。本当に勉強になりました」
と言えば、、相手はもう業を背負わなくなります。
悲観的な捉え方をしてしまうとお互いに業が残ってしまうと思われます。
「飛神~佐藤康行著~」より抜粋
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つまり、もともと姑も父も最初から「仏」であり「神」だったのです。
自分の闇(業)を解消してくださるために、
そのことによって成長をさせたいがゆえに
私とご縁をもってくれていたのです。
感謝しかありませんm(_ _)m
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