どっちを認めるのか

いつもありがとうございますm(_ _)m

 

 

 

自宅に帰るとかなり自分が疲労していることがわかりました。

 

 

 

ちょっと横になっていると娘が

「ただいま~」と元気いっぱいに帰ってきたのです。

 

 

 

「おかえり~」と言いつつも体は動かしたくありません。

 

 

 

それで、気づいたんです。

 

 

 

「こんな素晴らしい娘なのに、こんな母でごめんね」

 

 

 

罪悪感

 

 

おー、それでザワザワしてたの?

 

 

 

 

娘はとっても良く面倒を見てくれます。

 

 

 

老人介護かよ、ってくらい(笑)

 

 

 

で、将来はお母さんを目指すなんて言い出すので

「え?こんな情けない母にはなりなさんな」という

心のつぶやきがあったのです。

 

 

 

それでザワザワってことです。

 

 

 

娘はどこまでもどこまでも

家族みんなを認めてくれる存在

 

 

 

真我に導いてくれたのも娘でした。

 

 

きっと先生なのでしょうね。

 

 

こんなことがあり、責める心ってなんだろうと思い、

佐藤学長の言葉を探している自分がいました。

 

 

そしてそこに私にとっては人生でやるべき

究極の言葉を発見!

 

 

ありがとうございますm(_ _)m

 

 

 

「私が悪い。私がダメです」って言うのをそのままにしておくと、

責めていることになります。

 

ところで、なんで私がダメで、私が悪いって分かるんですか?

 

対象物があるからでしょ。

 

その対象物はどういうものか。

 

素晴らしい自分が見ている、素晴らしい自分がダメな自分を見ているからダメだって分かる。

 

対象物がなければ分からないんですから、だからその素晴らしい自分を自分と認めるか、ダメな自分を認めるかによって全然違いますよね。

 

だから、その素晴らしい自分を理解してあげるんです。

 

必ず物事を見るのは対象物がないと見えない訳

 

自分を責めている心が対象物

 

「素晴らしい自分がダメな自分を見ている」と言う事は、

素晴らしい自分を自分として認めるか、

そのダメな方の自分を自分と認めるか

 

認めたものが表れてくる、心の世界、法則がある。

 

認めたものが現れて存在してくる。

 

認めないものはないに等しい訳です。

 

自分の中に存在するものが、相手の存在も認めることが出来る訳です。

 

あなたが自分も真我の愛だって分かった時に、相手の真我の愛も認める事が出来る訳です。

 

佐藤康行

 

 

 

 

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